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「紅灯」が照らす、すねもの・一葉の宇宙

美しい照明が照らす世界に、紅が映える(照明/中川隆一)。女性としては日本初の職業小説家といわれる、樋口一葉の評伝劇。24歳という若さで幕を下ろした人生を、彼女は猛スピードで駆け抜けたことだろう。書くことを生業に生きた女のわりに、黒木華ふんする一葉は、本郷菊坂を思わせる、大きな階段を何度も昇り降りし、紅い足袋をちらつかせて舞台中を歩き回る。休憩を挟み3時間弱の上演の中、ひと際紅が映えるのは、樋口一葉というペンネームが決まった、雪の降る夜の場面だ(後に『雪の日』のモチーフとなる)。雪の舞う夜道を、紅色のストールに身を包んだ一葉がひとり歩く。さっきまで一緒だった、作家・半井桃水(平岳大)との甘い時間と、外の寒さで、真っ白な頬を紅に染めた一葉は、うっとりと女の顔になっていた。石川さゆりの演歌『一葉恋歌』に「紅灯」と書いて「あんどん」と読ませる歌詞があるが、まさに一葉は、報われぬ恋で紅色に灯ったその身から、小説を生み出していったのだと思う。

 桃水との恋の調子の悪さは、一葉の発する声にもよく表れている。桃水を前にした途端、本来のカラリとした性格はなりを潜め、もじもじしてしまう一葉。恥じらいからか、幾分縮こまってさえ見える彼女だが、声だけはひどくなまめかしい。家族や萩の舎の女友だち、「文学界」の青年文士らの前では「いくぜっ!」と気炎を揚げたり、往来で文学談義に花を咲かせたりと、シンプルな筆致と同じ、たのしそうな声(パッションもにじませつつ)で、場を盛り上げるのだが。流麗な声音で、軽々と場面転換をはかる黒木の声には、上手なバイオリンの調べに身を任せるような、心地よさがある。林正樹のジャジーなピアノとも相性がよい。黒木一葉のなめらかな声は、木野花演じる、一葉の母・たきの、したたかな声と歯切れの良い語り口とも見事なハーモニーを奏でる。山梨から夫(一葉の父)と駆け落ちし、乳母として働きながら、江戸での暮らしを立ち上げた、たきの気概は、じわじわと一葉の物語に効いてくる。

 妹のくに(朝倉ゆき)と『ゆく雲』の主人公のモデルについて話すシーンがある。心の綻びだって縫い合わせてみせると意気込む、裁縫の得意な妹に対して、一葉は「厭う恋こそ、恋の醍醐味」と語る。思っても想っても叶わぬ恋を捨て去った後に、残るものが見たいのだ、と。拗ね者と呼ばれた一葉の恋は、お天気にすら祝福されることなく終わっていくが、後に残ったものは、時を超えて読み継がれる小説であり、小説家としてのたしかな居場所だった。冒頭、雨の中を傘で視界を遮られ、行き交う人々とぶつかりながら、桃水の家に転がり着いた一葉は、中盤の満月の夜、時代にそぐわず、苦境に立たされた桃水を案じて、雑踏に一瞬、立ちすくんだものの、妹にうながされて我に返る賢さを得た。そして、いよいよ最期を迎えるときには、自分の文机の前に座る一葉のもとを、次々と訪れてくれる人々ができた。短い人生の散り際に、なじみの彼らへの感謝を口にした後、「をしまれて散るよしもがな山桜 よしや盛は長からずとも」と詠み、一葉はようやく恋を諦める。しかし舌の根も渇かぬうちに、墨をすりつつ、前を見据えて口にした、最後のセリフには……思わず膝を打った。その痛快な言葉は、実りそうにない恋の行方を見守っていた観客に、なんとも解放的な気分をもたらした。

 一葉と同じく“書く女”である、演出家・永井愛のよく練られたセリフが、目と耳を鮮やかに刺激する。『十三夜』で、録之助のやるせなさを表現した「厭や」という言葉を、一葉のセリフとして印象的に使うなど、一葉の小説のエッセンスを巧みにちりばめながら、薄幸の一葉像とは異なる一葉を存在させてみせた。「厭う恋」の果てに、一葉が見た宇宙とは、意外にも晴れ晴れしたものだったのではないかと思い至った。父親や夫の間で汲々としていた当時の女たちとは違い、お金も後ろ盾もないけれども、男や社会や貧乏に捕らわれない、一葉の小説には、自由な宇宙が広がる。(2016.1.22/世田谷パブリックシアター)

二兎社公演40『書く女』

作・演出/永井愛

作曲・ピアノ演奏/林正樹

出演/黒木華、平岳大、木野花ほか

現在、東京・世田谷パブリックシアターにて公演中。その後、全国を巡演予定。

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