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私的名台詞 #4 <br>「アフリカの飢えた子供たちのことも、ごめんなさい、本当にどうでもよかった」

小説『それでも花は咲いていく』より

 エーデルワイス、ダリヤ、ヒヤシンス、デイジー、ミモザ、リリー、パンジー、カーネーション、サンフラワー。

 9つの花の名前を冠した短編をあつめた『それでも花は咲いていく』(幻冬舎)は、芸人・前田健の処女小説だ。さまざまな種類のセクシャルマイノリティを主人公にした物語は、はかなげだったり可憐だったり凛としていたり、そして時には歪んでいたり、まさにタイトルに並ぶ花のように色も形もさまざま。素直でやわらかな文章はさらりと読めるが、ただ流れていってしまうのではなく、読後にはきちんとなにかが心に残る。はじめての小説とは思えない装丁や本文デザインも含めて、とても手ざわりのいい端正な本だ。

 けれど、私がこの本をたまらなく好きだと思ったのは、次の一文を読んだときだった。

“もうなんでもいい。加奈子のことも、この彼のことも、レンタルビデオの延滞も、 嫌味な上司も、結婚しろという親も、アフリカの飢えた子供たちのことも、ごめんなさい、本当にどうでもよかった。”

これは「ダリア」の主人公であるセックス依存症のOLが、快楽に翻弄される自分自身の心のうちを語る一節だ。どうでもいい、どうでもいいと続けながら、最後にはさみこまれた「ごめんなさい」のひとことを読んだ瞬間に、この言葉をここに書かずにいられない作者の心情に胸が締めつけられるような気がした。

 この本で描かれる9人の主人公たちは、皆、心のどこかに「ごめんなさい」という気持ちを抱えている。「神様、僕は病気ですか? 僕はゴミのように燃えてなくなればいいですか?」と心の中でつぶやくロリコン青年。自分から誰かが離れていくことを「私のせいだと思っていた。全部、私が悪いんだと思っていた」と振り返るSMプレイにはまるエステ会社の女社長。「待つことは慣れていた。待たせるより心苦しくないからずっといい」と喫茶店で密かに思いを寄せる男性を待つボクサー。誰もが心の奥にうしろめたさを抱き、自問自答をくりかえす。こんな自分が誰かを好きになってもいいのだろうか。こんな自分が幸せになってもいいのだろうか。こんな自分に、生きている価値はあるのだろうか。

 彼らが抱えるうしろめたさは、特殊なセクシャリティによるものだ。けれど「こんな自分が」と思うことは、誰にだってあるだろう。そして、そういう思いを抱いたとき本当に辛いのは、それでも生きてしまうこと。「こんな自分が」という自虐に浸り、落ちて、枯れてしまえれば楽だけれど、人間というのは意外としぶとい。それでも咲こうとして光の方を向いてしまう。

9つの物語の結末は、行く手に光が見えるものもあれば、心がぎゅっと絞られるように辛いものもある。それでも、彼らは生きていくだろう。「ごめんなさい」を抱えながら、「それでも」とかすかな光を探して咲いていく。読み終えてそう思えるのは、きっと作者がそのことを静かに、けれど強く肯定しているからだ。

 今はこの本が前田健の最後の小説になってしまったことが、ただただ悔しい。

『それでも花は咲いていく』

著者/前田健

出版社/幻冬舎

発売日/2009年3月1日

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