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「よ」に弱い

映画『野火』

 映画としての色気が、メッセージ性を軽く凌駕してしまっていた。

 ある種の使命感や伝えるべきことがあって作られているはずなのに、それ以上に映画的魅力が画面からだだ漏れしている。

 塚本晋也監督の『野火』は、そんな映画だった。

 宣伝チラシのビジュアルだけでも、匂い立つような画力が伝わってくる。実際にフィリピンのミンダナオ島でロケをしたのは、深い森の全景やニッパ椰子の葉で葺いた屋根の家、塚本監督自身が演じた主人公・田村と現地の人々が登場するいくつかの場面だけで、残りは沖縄、埼玉などの国内ロケ。にもかかわらず、見ているこちらまでフィリピンの森の中に入り込んでしまったような臨場感がある。小道具の銃や刀、戦車なども木やダンボールを使った手作りだが、画面のなかではリアルな存在感を放っていた。

 冒頭の病院と駐屯地を繰りかえし行き来する、いわゆる「天丼」的な見せ方には、原作をそのままなぞっているのにそこはかとないおかしみが滲む。

 そしてサーチライトに照らされた夜の銃撃シーンでさえ、目を背けたくなるような無残さが、目を離せないほどの映像力で描き出されていた。

 イデオロギー的な目線で見にきた人ほど、この映画的魅力に面食らったのではないだろうか。昨年夏、劇場へ見に行った際に、前の上映が終わって出てきた人たちのなんとも形容しがたい表情の、ひとつはこれが理由だったのだなと、自分が見終わってしみじみ思ったものだ。

 そしてそれは、昔、自分がはじめて岡本喜八監督の『肉弾』を見たときの感覚に似ていた。あの作品も痛烈な戦争批判でありつつ、抜群に面白いエンターテインメント映画で、学生時代、戦争について考える題材として見た私は、作品としてあまりに面白いことに面食らったのだ。

 とはいえ私にとって、そんなあれこれのすべてをも凌駕する破壊力を持っていたのは中村達也演じる伍長の最後のひとことだ。

「俺が死んだら、ここ、食べていいよ」

 肩にのせた銃にだらしなく両手をかけた立ち姿やら、ふてぶてしい笑い顔やら、そこまでにもかなりやられていたのだが、このひとことは反則だった。目眩がするほどの色気を感じた。 

 これが、「ここ、食べていいぞ」だったら、これほどグッとこなかっただろうと思う。肝は最後の「よ」なのだ。この一文字に、中村達也本人の持つ色気と、伍長という役柄が持つ色気が凝縮されている。泥にまみれ、ハエにたかられて、それでも漂うあの色気はなにごとだろうか。

 この台詞、原作では別の登場人物が口にする言葉なのだが、むしろそこには宗教色が漂い、どこか赦しの匂いが感じられる。ところが本作のなかで中村達也が口にした同じ台詞は、むしろ誘惑に近かった。

「俺が死んだら、ここ、食べていいよ」

 この伍長の最後の台詞を聞くためだけに、私はこの先、何度でもこの映画を見るだろう。

追記:

『野火』は現在、渋谷のアップリンク「見逃した映画特集2015」で上映中。1/2(土)〜1月19日(火)まで。見終えて劇場を出た瞬間、夏の日差しに照らされて映画と現実の境界がゆらぐような感覚も捨てがたいので、今年の夏もぜひ再上映してほしい。いっそ夏映画の定番になればいいのに。

『野火』

英題/Fires on the plain

監督・脚本・編集・撮影・製作/塚本晋也

原作/大岡昇平「野火」

出演/塚本晋也、リリー・フランキー、中村達也、森優作

製作年/2014年 製作国/日本

上映時間/87分

配給/海獣シアター

(c)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

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