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冬の本棚

冬の読書は楽しい。寒い冬の夜にぬくぬくした毛布のなかで、あるいはあたたかいストーブの前で本を読んでいられる幸せは格別だ。そんなとき、鼻がつんとするような冬の空気や雪の冷たさを感じさせてくれる6冊。

「闇の左手」

アーシュラ・K・ル・グィン(ハヤカワ文庫)

“「われわれの人生においてもっとも重要な要素となるものの一つは、男性に生まれるか女性に生まれるかということです。ほとんどあらゆる社会においてその性が期待や行動や外観や倫理や作法などーーほとんどあらゆることを決定するのです。」”

 雪と氷に閉ざされた惑星〈冬〉へ、外交関係を結ぶためにやってきた宇宙連合の使節ゲンリ―・アイと、彼の案内役を務める宰相エストラーベン。権力争いに巻き込まれた彼らが、たった二人でそりを引き広大な氷原を踏破する場面が物語の4分の1ほどを占めるという、なかなか不思議な手触りの古典SF。決して読みやすくはないが、じっくりとページをめくるうちに深く深く物語世界に潜っていくような気分を味わえる。

 現実と異なる世界を設定することで、現実の世界に別の角度から光をあてられるのがSFの持ち味のひとつ。本作でも両性具有である〈冬〉の人々とヘテロの男であるゲンリーが互いの性について語りあう描写が見事なジェンダー論になっていて、そういう意味では読みすすむうちに深く深く思索にふける楽しみも得られる一冊だ。

「ザ・ロード」

コーマック・マッカーシー(早川書房)

“悪いことはなにも起こらないよね。

そのとおりだ。

ぼくたちは火を運んでいるから。

そう。火を運んでいるから。”

 これもまた「冬の旅」の物語。大きな天変地異の後、灰色に沈んでいく世界を南へ向かって歩く父親と息子のロードノベルだが、「」を使わない会話文が詩的なリズムを持っていて、物語全体が叙事詩のように感じられる。とはいえ、彼らが旅する荒れ果てた世界の描写はとてもリアルだ。自転車のバックミラーを取りつけたショッピングカートに身の回りのものを積み、住人のいなくなった家の地下室で缶詰などの食料を手に入れ、時には放置された車のなかで眠る。そうしたサバイバル生活が淡々と描かれるなかで、唯一、輝くのが「火を運ぶ(carry the fire)」という言葉。訳者あとがきによれば、本書執筆のきっかけは作者が60代半ばでもうけた息子がこれから生きていく未来の世界を案じてのことだったという。Tracy Chapmanが歌う「All that you have is your soul」のなかで「あなたが最後まで持っていられるのは魂だけ」と教えてくれたのは母親だったが、この作品では父親が自分の胸から息子の胸へ小さな火を移していく。その火は灰色の世界で強く輝いている。

「北極のムーシカミーシカ」

いぬいとみこ(角川文庫)

“(「ミーシカ、ごめんね。わたしはもう、二どとあんたの友だちのなかまを、たべたりしないと約束しますよ……」)ミーシカは、こんなふうにかあさんにいってもらいたかったのです。でも、かあさんは、いいました。(「わたしたちには、冬のたべものがいりようなの……」)”

 生まれたばかりの北極グマの双子、ムーシカとミーシカの冒険物語……と子供のころはそう思って読んでいたが、あらためて読み返すとむしろこれはかあさんグマの物語だと気づいた。幼いアザラシのオーラと友達になったミーシカが、自分もいずれは彼らを食べる側に回るのだと気づいてしまったとき、かあさんグマは相手が子供だからとごまかさずに真実を伝える。そしてその後、もっと上手に伝えてあげたかったと思い悩む。松谷みよ子の「モモちゃん」シリーズもそうだが、ずっと心に残る児童文学は「きれいごと」と「理想」がきちんと線引きされていて気持ちがいい。そして、そんなややこしいことを考えなくてもただ純粋に楽しめる。うすみどりいろの大きな氷の山で過ごす北極の夏や、青くて深い氷のさけめ、空に大きくのぼる大熊座。キョクアジサシやエスキモーという言葉も、この本で覚えた。アニメ化されて、本もいろいろな版がでているが、大友康夫のシンプルな挿絵が入った角川文庫版がとてもかわいらしくて好きだ。

「ぼくの小鳥ちゃん」

江國香織(新潮文庫)

“つめたい空気が顔にぶつかり、雪の町の匂いがした。信号の緑がドロップのようにきれいにみえる。コーヒーであたたまったぼくのくちびるに、冷気がさっとあつまってきた。”

 雪の降る寒い朝、窓からとびこんできた小鳥ちゃんとぼく、そしてぼくの彼女が過ごす冬の日々を描いた小さなお話。ヒーターの前に立って飲むあたたかい泡立ちミルクコーヒー。雪のつもった朝の散歩。曇った土曜日のスケート場。きりりとした文章が冬の気分を際立たせてくれる。荒井良二さんのカラフルなイラストとのバランスも素晴らしい冬の本。

 小鳥ちゃんとぼくと彼女の三角関係は、トライアングルのように澄んだ音をたてている。“数字で言うと2のように気がきいている” 彼女に対して、ぼくにとっての小鳥ちゃんは中に入れる数字によって答えがスッキリしたりしなかったりする「√(ルート)」のような存在なのかもしれないと思う。そんな誰かがいてくれると、きっと人生は少しカラフルになる。

​​「新訳 チェーホフ短編集」

チェーホフ、沼野充義[訳](集英社)

“『いったいどういうことなの? あの言葉は誰が言ったの? 

 あなたなの、それとも空耳だったの?』”

 初めて父と二人でお酒を飲んだ夜、好きな小説の話になったところで父があげたのがチェーホフの短編だった。「男の子と女の子がそりすべりをしている。男の子は坂をすべりおりるとき女の子の耳元で「愛してる!」と叫び、すべり終わると女の子は「なんていったの?」と聞き返す。本当に聞こえてなかったのか、とぼけているのかわからないけれど、ふたりは何度もそりすべりをして、それをくりかえす。それだけの話」といい、タイトルはたしか「そりすべり」か「そりあそび」か……と酔いも手伝って曖昧だった。その後、チェーホフ全集などで探してみたもののそんな題名の作品はみあたらず、すっかり忘れていたのだが、つい数年前、装丁にひかれて買ったこの本のなかに「いたずら」という短編があり、それがまさに件の話だった。こういう本にまつわる偶然は、窓をあけたら思いがけず雪景色だったときのような、ちょっとした嬉しさがある。そして読んでみると、女の子は聞こえないふりをしているのではなく本当に終始とまどっていて、私が父の話を聞いてイメージしていた小悪魔的な雰囲気はまったくなかった。父の記憶のなかで彼女がそんな風に変化していたと思うと、それはそれで面白い。

「触れもせで 向田邦子との二十年」

久世光彦(講談社文庫)

“あんなに約束の時間にいい加減な人も珍しかった。でも、もしかしたらそれは私に対してだけで、他の人には律儀だったのかもしれない。そう思うと、あの人がいなくなって十年も経った今になって急に腹が立ってくる。私はいつもあの人を待っていた。”

 ドラマ演出家の久世光彦が脚本家として二十年来コンビを組んできた向田邦子について綴った一冊。まずは久世光彦の文章の巧さに驚く。リズミカルで読みやすく、なにより描写力が見事なのだ。雨の日の喫茶店でさんざん待たされたあと、走ってやってきた彼女の素足に跳ねていた泥。「寺内貫太郎一家」という題名が決まったときの、青山墓地からかけているという電話の声。彼女から癌だと知らされた日の夜明け、朝の牛乳配達の壜の音。まるでドラマの一場面のように、目の前にその場の情景が浮かびあがってくる。また、本の題名と同じ「触れもせで」という章で、久世は “二十年の間に、向田さんの体のどの部分にも、ただの一度も触ったことがない。” と書いている。たまたま同じものを取ろうとして手が触れ合ったり、肩をたたきあったり、普通ならありそうなそういうことも一度もなかった、と。いかにも男の人らしい「特別」だなあと思う一方で、こういう形の恋文もあるのかと感じ入った。この本は向田邦子自身が書くエッセイよりも格段にロマンチックで、どこをどう切っても「向田邦子への恋文」だ。

 特に冬にまつわる話があるわけではないが、ストーブにやかんをかけて窓が曇るくらいにあたためた部屋で、ぎっしりと目が詰まって重いひざかけをかけて読みたい。そしてときどきカーテンをあけて窓の水滴をぬぐい、ひんやりとなめらかな冷たさを指先で確かめたい。なぜかそんな気持ちになる一冊。

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