

2020年映画ベストテン+3
石村加奈のベスト10+3 ©2020「海辺の映画館-キネマの玉手箱」製作委員会/PSC 1海辺の映画館ーキネマの玉手箱 2パラサイト 半地下の家族 3はちどり 4ソウルフル・ワールド 5おらおらでひとりいぐも 6国葬 7ストーリー・オブ・マイライフ・わたしの若草物語 8佐々木、イン、マイマイン 9行き止まりの街に生まれて 10ジオラマボーイ・パノラマガール 緊急事態措置の前と後で、映画を取り巻く環境がすっかり変わってしまった一年だった。『パラサイト 半地下の家族 』を観たのなんて、ずいぶん昔のことのように思えるが、社会とリンクした作品の強度は、いま観ても健在。改めて素晴らしい映画だと思う。『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』を遺して、大林宣彦監督が亡くなられたショックは、いまなお大きい。過去作を見返しながら、大林監督ならば、いまの世界をどのように感じ、どう表現するのか、とても知りたいと思った。少女をとりまくちいさな社会の、幅広い世代の登場人物たちの心の機微を描きだした『はちどり』は、観る世代によって違う感想を抱くのだろうなと、そんな懐の深さを感じた。


2019年映画ベストテン+3
岩根彰子のベスト10+3 ©Meta_Spark&Kärnfilm_AB_2018 1 ボーダー 二つの世界 2 幸福なラザロ 3 シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢 4 永遠の門 ゴッホの見た未来 5 ナディアの誓い 6 天国でまた会おう 7 バジュランギおじさんと、小さな迷子 8 たちあがる女 9 芳華-Youth 10 ワイルドライフ 2019年はマイノリティの声について考えさせられることが多い1年だった。だからだろうか、社会からはみ出さざるを得ない人々を描いた映画が強く印象に残った。『ボーダー 二つの世界』は、映像化によってまったく漂白されていない世界観が圧巻で、小説を読みながら深く物語世界に没頭していくときに似た感覚を味わえた。世界から孤立した主人公を描いている点では、ある意味、『ジョーカー』の対極に位置する作品のようにも思え、それは本作の主人公が社会のなかで「異形の女」として生きてきたことと関わりがあるような気もする。『幸福なラザロ』の奇妙な味わい、そしてあるべきところに音楽が響いた場面でわきあがった喜びは忘れがたい。『シュヴァル

私的名台詞#5<br>「私はきっとろくでもない大人になる」
夏休みドラマ「キッドナップ・ツアー」 NHK公式ホームページより 夏休みの初日に、小学五年生のハル(豊嶋花)は、別居中の父親(妻夫木聡)に誘拐される。だらしなくて、情けなくて、お金もない父とのひと夏の旅で、少女は、それまで知らなかった父親の姿を知る。 冒頭のハルは、大それた誘拐を決行したことにはしゃぐ父親を、冷静に見据えていた(夏海光造のカメラが、夏の日差しの下、少女の心に沈んだ、諦めや緊張を美しく照らし出す)。角田光代の原作には「好き、とか、きらい、というのは、毎日会ってる人だから言えることなんだと気づいた。おとうさんのことが好きなのかきらいなのか、私は自分でわからなくなっていた」とある。大人でも子供でもない、端境の少女の眼差しが映し出す、大人の作った社会を、みずみずしく描いてきた演出家・岸善幸が、原作のこの部分を、鮮やかに掬い取ってみせる。別居する「とうの昔におとうさんのこと、好きでもきらいでもなくなっていた」少女は、ふざけた父親を目の当たりにして、忘れていた(忘れようとしていた?)感情を取り戻していく。 自分勝手な父親への怒りをむき出しにし

ひとりで踊る
土曜ドラマ「トットてれび」 NHK公式ホームページより 向田邦子が飛行機事故で逝ってしまった後、毎日入り浸っていた彼女のマンションの部屋を見上げるトットちゃん。喪服というには凝ったデザインの黒いジャケットとロングスカートに裾の長い白いブラウスを身につけた彼女は、思い出のつまった部屋にペコリと頭を下げると、踵をかえして歩き去る。そして懐かしい中華料理店の窓際の席を外からのぞきこみ、「向田さん、わたしね、面白いおばあさんになる!」と、いまはもう居ないその席の主に声をかけ、くるくると踊り出す。「寺内貫太郎一家」のテーマに乗って、くるりくるりとかろやかにまわるトットちゃんを中心にひらめく裾は、白と黒の鯨幕のようでもあり、ひとときだけほどかれた悲しみと喜びであざなわれた縄のようにも見えた。 黒柳徹子の半生とテレビの歴史を重ねて描いた「トットてれび」は、一話30分×全7話という短さとは思えないほど濃密なドラマだった。トットちゃんを演じた満島ひかりを筆頭に、森繁久彌(吉田鋼太郎)、渥美清(中村獅童)、向田邦子(ミムラ)、沢村貞子(岸本加世子)ら時代を彩った人々


私的名台詞 #4 <br>「アフリカの飢えた子供たちのことも、ごめんなさい、本当にどうでもよかった」
小説『それでも花は咲いていく』より エーデルワイス、ダリヤ、ヒヤシンス、デイジー、ミモザ、リリー、パンジー、カーネーション、サンフラワー。 9つの花の名前を冠した短編をあつめた『それでも花は咲いていく』(幻冬舎)は、芸人・前田健の処女小説だ。さまざまな種類のセクシャルマイノリティを主人公にした物語は、はかなげだったり可憐だったり凛としていたり、そして時には歪んでいたり、まさにタイトルに並ぶ花のように色も形もさまざま。素直でやわらかな文章はさらりと読めるが、ただ流れていってしまうのではなく、読後にはきちんとなにかが心に残る。はじめての小説とは思えない装丁や本文デザインも含めて、とても手ざわりのいい端正な本だ。 けれど、私がこの本をたまらなく好きだと思ったのは、次の一文を読んだときだった。 “もうなんでもいい。加奈子のことも、この彼のことも、レンタルビデオの延滞も、 嫌味な上司も、結婚しろという親も、アフリカの飢えた子供たちのことも、ごめんなさい、本当にどうでもよかった。” これは「ダリア」の主人公であるセックス依存症のOLが、快楽に翻弄される自分自


本→音楽と映画#4<br> 3.11をめぐって
小説『彼女の人生は間違いじゃない』 映画監督・廣木隆一の、初めての小説『彼女の人生は間違いじゃない』(河出書房新社)を読んだ。主人公のみゆきは、東日本大震災後も、地元・福島の仮設住宅で父親と暮らし、役所に勤める女性だ。彼女は時々、高速バスで東京へ行き、デリヘル嬢になる。目的はお金ではなく、「少し現実を忘れられる所」で「私を知らない誰かと。私も知らない私と。誰かを裏切ってみたかった。」から。震災で生き残ったことに、漠然とした負い目を抱えているのだろう。そんな彼女のこわばった心をほぐして、その人生を肯定してくれる、廣木監督らしい、やさしいお話だった。みゆきの、デリヘルで稼いだお金の使い方が、かわいらしい。ひよわでも、だらしなくても、監督の描き出す人間には、どこか憎めない人間味がある。 福島出身の廣木監督は、震災から1年後に『RIVER』という映画を発表している。クランクイン直前に、東日本大震災に遭ったこの作品は、監督の強い意志によって脚本が書き直され、震災後の日本を映し出す作品に変更された。その後も、福島ロケを敢行した『海辺の町で』(13年*3月5~


冬の本棚
冬の読書は楽しい。寒い冬の夜にぬくぬくした毛布のなかで、あるいはあたたかいストーブの前で本を読んでいられる幸せは格別だ。そんなとき、鼻がつんとするような冬の空気や雪の冷たさを感じさせてくれる6冊。 「闇の左手」 アーシュラ・K・ル・グィン(ハヤカワ文庫) “「われわれの人生においてもっとも重要な要素となるものの一つは、男性に生まれるか女性に生まれるかということです。ほとんどあらゆる社会においてその性が期待や行動や外観や倫理や作法などーーほとんどあらゆることを決定するのです。」” 雪と氷に閉ざされた惑星〈冬〉へ、外交関係を結ぶためにやってきた宇宙連合の使節ゲンリ―・アイと、彼の案内役を務める宰相エストラーベン。権力争いに巻き込まれた彼らが、たった二人でそりを引き広大な氷原を踏破する場面が物語の4分の1ほどを占めるという、なかなか不思議な手触りの古典SF。決して読みやすくはないが、じっくりとページをめくるうちに深く深く物語世界に潜っていくような気分を味わえる。 現実と異なる世界を設定することで、現実の世界に別の角度から光をあてられるのがSFの持ち味の


たこ八つ〜井伏鱒二「画本 厄除け詩集」から『俳優 亀岡拓次』まで
元旦の朝、年末にSさんから贈られた、井伏鱒二の「画本 厄除け詩集」(12)を朗読した。厄除けや風邪よけのまじないとして、詩を書いたという井伏の詩は、煩わしさなどを笑い飛ばしてしまうドライさに溢れ、見開きを目一杯に使った金井田英津子の画の、濃やかで渋みのあるタッチもカッコいい。昭和12年から、再刊ごとに詩を増やしていった「厄除け詩集」に、「訳詩」「拾遺抄」を加えた30編の中で、特に心に響いたのは「逸題」。声に出したとき「春さん蛸のぶつ切りをくれえ」のくだりが、なんともユーモラスに感じたのだ。続く「ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ」のそこはかとない色っぽさ。おせち料理にも欠かせぬタコは、多幸(たこ)から幸せを呼ぶという願いが込められた、縁起のよい食べものである。……というわけで今回は、タコにちなんだ作品をいくつか紹介したい。 タコといえば、まず外せないのは田辺聖子の小説だ。田辺氏の半生をモチーフに、藤山直美がヒロインを務めたNHK朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」(06)。ひょうきんなタイトルは「とかく女の好むもの 芝居 浄瑠璃 芋蛸南瓜」という井原


文子さんから
漫画 『ドミトリーともきんす』 年に数回は『るきさん』を読み返す。あの話だけ、と思って手をのばしても一度ページをひらいてしまったらその手は止まらず、たいていおしまいまで読みきってしまう。かれこれ何度、るきさんの「それではチャオね」というあいさつを読んだことだろう。 その『るきさん』の原画が見られるとあっては足を運ばぬわけにはゆかぬ、と、11月半ばの雨の土曜日、目白のブックギャラリーポポタムへ高野文子作品原画展を見にいった。 小さな展示室には、『るきさん』『黄色い本』『ドミトリーともきんす』の原画がそれぞれ2見開きずつ、飾られていた。思ったとおり。たたみに寝そべったるきさんのスーッとのびた足も、洗濯ものをもってかがむえっちゃんのふんわりした輪郭も、迷いのない線で一気に描かれている。この人は本当に「線」に愛されている、とあらためて感じた。 高野文子の絵は空中でボールが描く放物線や真冬に梅の木が空へぐいと伸ばす枝のような、自然が描く線と同じ心地よさを持っている。描いているというよりも、むしろ体のなかから線が自然にあふれだしているようで、だから彼女の漫画